本当に平安人は文語体でしゃべってたの? (古文・漢文板

1 :名無氏物語:02/07/24 15:00
そんなバカな!

 何も、「バカな!」ことではない。単に1が平安時代を想像できないだけだ。

 身近でないものを想像するのは難しい。
 昔、愛知県出身の人が「東京/大阪に行ったら、皆東京/大阪方言を使っていたので驚いた」と言っているのを聞いたことがある。その人にとって、東京や大阪の言葉はマスメディアで見聞きするものであり、身近なものではなかった。そのため、日常的に東京/大阪方言が使われる環境を想像することができなかったのだ。
 ましてや平安時代だ。身近でないことは、東京や大阪の比ではない。知識のない人が、「文語体」がかつては文語ではなく生きた話し言葉だったことを想像できなくたって、何らおかしなことはない。

2 :名無氏物語:02/07/24 15:20
確かそうだったと思うが。当時の人々にとっては、口語が今で言う古文で、文語が
漢文だったはず。古文が省略が多かったり、読解を助けるための符号(句読点やカギカッコ)
が出てこなかったりして難しい理由も、その辺にあるかも知れない。普通、会話には
省略が多いし、点もマルも出てこないからね。


3 :名無氏物語:02/07/24 16:56
文語文ったって色々あるから平安人がそうしゃべってたと簡単には言えないし、
今だって言文一致とは言っても書き言葉と話し言葉は違うから、小説などの会話の通り話してたとは言えないだろうが、
でもまあ、平安初期~中期頃の話言葉が文語の元になったと言われております。
何にしても「いづれのおほんときにか」っていう言葉、実際にどう発音したかはまだまだ不明。
金田一春彦が、『源氏物語』を、当時の音韻に関して分かってる限りの知識を入れて
朗読させてるテープがあるよね。
その通りに話してたかどうかは怪しいけど参考になるし、ちょっと聞く機会があったら面白いかも。
当然今私たちが源氏を音読するのとは全然違います。
それはそうと、「文語が漢文」っていうのはちょっと語弊があると思いますが。
漢文は今でいう英文みたいなバリバリの文明国語ですから。


178 :名無氏物語:2007/01/17(水) 07:36:48 ID:Q8TvlJEI
>>3
>>「文語が漢文」っていうのはちょっと語弊があると思いますが。
>>漢文は今でいう英文みたいなバリバリの文明国語ですから。

いや英文とは違うだろ。日本の漢文はイタリアのラテン文、中東のアラビア文、
インドの梵語だろ。常識じゃないの


199 :名無氏物語:2008/07/02(水) 08:24:43 ID:7A4JUW4Z
>>178
文字だけ見てりゃそう思うかも知れないが
イタリア語-ラテン語と現代アラビア語-古典アラビア語が
なんだかんだいって同系統の言語なのに対し
日本語と漢語は根本的に文法の異なる全くの別言語だから
英語に例えるのもそんなに的外れじゃないだろ

そういや、格変化を無くした孤立語的屈折語の英語は文法上は漢語に似たところがあるよな

 書き言葉としてどんな言語が使われるかは、場所や時代によって千差万別である。自国の現代語や古典語、時には外国語が書き言葉として採用される。つまり、書き言葉の立ち位置や性格、話し言葉と書き言葉の関連性などは、社会によって異なるのだ。
 そうである以上、平安時代の人にとっての漢文が、現代人にとっての古文に相当するか、英文に相当するかを論じるのはナンセンスだ。所詮比喩でしかないからだ。何ら実態にせまれはしない。

4 :  :02/07/26 23:05
当時は言文一致だったんでしょう


25 :名無氏物語:03/01/15 21:07
言文一致の度合いは、当時の方が上かもな。

 源氏物語やらなんやらの、あのくねくねした文体は、
実は「話し言葉」のスタイルそのもの。
ためしに自分の口述を、テープか何かに録音して、
文章に書き起こしてみれば、よくわかる。

 2ちゃんのカキコも、スタイルの点では、言文一致の度合いには
非常に大きなものがあるけどね。この板は比較的そうでもないけど。
(「あぼーん」とか、語彙はまた別の話ね)。

 院政期までは、時代による文法の変化が比較的素直に書き言葉に反映されていた。一方、鎌倉時代以降になると、時代による文法変化が書き言葉に表れにくくなった。このことから、院政期までは言文一致であったが、鎌倉時代以降は古い時代の言葉に倣って書くようになり、言文乖離が生じたと考えられている[1]

27 :桃色黄色:03/03/31 19:38
現代の日本語でさえ、正書法は確立されていないし、
音声言語は文字言語を常に先行するものだから、
書いてある言葉を、そっくりそのまま話していたという説には無理があると思います。


30 :名無氏物語:03/04/02 17:55
>>27
「そっくりそのまま」みたいなコトバ、安易に使いなさんな。誰もそんなこというてへんで。

 言文一致というのは、話し言葉が「そっくりそのまま」書き言葉になることではない。話し言葉と書き言葉とが同じ文法に則っていることである[1]。上述のように、平安時代の和文には時代による文法の変化が比較的素直に反映されていた。そのため、当時の和文は話し言葉と同じ文法に則っていた、すなわち言文一致であったと考えられている。

16 :名無氏物語:02/08/07 18:02
前から不思議なんだけど、とっさに「あなや」なんて叫び声が出るものなんだろうか?


17 :名無氏物語:02/09/29 02:29
じっさいは「アニャー!」って感じだったんだろうよ。

 感動詞「あな」は、現代語の「あら」の古形である[2]。現代でもとっさに「あら」と言う人はいるのだから、平安時代にとっさに「あな」という人がいたと考えることに何ら不自然はない。

31 :名無氏物語:03/04/11 10:47
平安時代の日記か何か、だったと思うけど
「父に会わず、母に二度会う、何ぞや?」
みたいなナゾナゾがあって、答えは「唇」らしいんだけどさ。
父は「ティティ」母は「ファファ」と言っていた、
と古典の音声学で習った記憶がある。
ちなみに、母音は「あいゐうえゑおを」の8つあったらしい。


32 :名無氏物語:03/04/12 01:08
ゐゑをが母音とな(w


33 :名無氏物語:03/04/12 02:09
>>32
月と雪の「キ」の発音が違ったらしいよ。


35 :名無氏物語:03/04/12 18:44
>>31
どっかで知識が混線していると思われ。
上代以前は、「イ・エ・オ」が2種類、計8母音あった。というのは一応定説だけれど
それと、ワ行の「ゐゑを」とは別。
また、すべての行の「イ・エ・オ」に2種類あったわけではなく、確認されているのは
カ行(キ・ケ・コ)、サ行(ソ)、タ行(ト)、ナ行(ノ)、ハ行(ヒ・ヘ)、マ行(ミ・メ)、
ヤ行(ロ)、ラ行(ロ)。
くわしくは、橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」参照のこと。
岩波文庫で数百円で買える。まっとうな図書館なら、多分、どこにでもある。


36 :名無氏物語:03/04/13 06:38
>>35
あれ?便宜上、「ゐゑを」と表記するんじゃなかったっけ?
違ったっけ。がーん。
今手元に国語学の教科書がないんでまた調べておくよ。
フォローサンクス。

 普通の人の知識なんて、こんなもんだ。

37 :名無氏物語:03/04/13 06:42
>>33
それ(甲乙)と「わゐうゑを」と何の関係があるの。
ワ行ってのは(w と5母音の結合した行でしょ。
出直してらっしゃい。


38 :名無氏物語:03/04/13 06:50
>>37
iとji


39 :名無氏物語:03/04/14 04:24
>>38
それはヤ行だろ。
わけわからん


41 :名無氏物語:03/04/17 23:41
ワ行とかヤ行とか言うけどさ。
50音表みたいなのができて
ワ行だのヤ行だのが別になったのは
一体いつよ。


43 :名無氏物語:03/04/18 00:40
>>41
もとから別なのよ。
いとゐ、えとゑ、おとを、昔は違う発音してたんだから。
それを表にまとめたのが50音表でね。
で、別だったのが、やがて区別されなくなって、
その結果、現代のワ行とヤ行が歯抜けになっちまった、というのが正しい。

勘違いしちゃダメよ。文法があって、言語があるんじゃないよ。
言語がまずあって、そこから法則性を抽象したのが「文法」よ。
五十音表も、然り。
実態として違う音だから、違うかなが定義されてたの。


44 :名無氏物語:03/04/18 02:40
そうそう。別になったんではなく
むしろ一緒くたにされちゃった。甲乙の別なんかがね。
50音表の当時は、もう甲乙はなかったってことかな。
いずれにせよ41は発想が真逆。


46 :41:03/04/19 02:12
あ、そーか。
なんか、噛みあわない理由が分かってきた。
逆だったんだな・・・。鬱が入ってきた。
50音表を元にしたらダメだな。
あれって確か、平安後期にできたんだっけ?


60 :名無氏物語:03/07/05 12:10
昨日図書館で読んだ本に、
平安時代には既に、母音は a、i、u、e、o の 5音になっていたとありました。
それ以前は漢文で 母音を当時の法則にしたがって ゐ、ゑ、を、を使い分けていたので、
便宜上、かな文字も使い分けていたということでした。
でも、実際は微妙に音も違っていたのでしょうね。
つーか、このスレ読んだけど、当時と今は全然違うみたいだね。

 少し上の書きこみすら読んでいないのか、60は当初の31と同じ勘違いをしている。

48 :名無氏物語:03/05/15 14:03
ウチの実家の地方の方言は、おもっくそ古語です。
「物くるる」「夜が明くる」とかね。
おかげで古文楽勝ですた。
ちなみに一部地域の老人はさしすせそがゆえません。
「しぇんしぇえ!!(先生)」みたいな…。


167 :名無氏物語:2006/08/21(月) 23:38:49 ID:MALOrilg
熊本弁には上二段活用とか下二段活用とか残ってるし、そのころからもう西の方と東の方で違ったかも。
熊本弁ってなかなか古語的要素がありますよ?

 非専門家による方言談義は、しばしば単なるお国自慢に終始する[3]。「○○の方言には古語が残っている」というのも、由緒正しさを強調するお国自慢的発言である。実際は、どこの言葉にも古い要素と新しい要素とがある。

148 :名無氏物語:2005/09/23(金) 16:12:51 ID:bb/VXOkn
方言には文語的表現が残っていることがよくある。
"退屈だ"という意味で"徒然だ(とぜんだ)"などという地域もある。

 「徒然(とぜん)」は、文語的表現とは言えない。なぜなら、「徒然」という語は、庶民の話し言葉として広く使われていたために各地に伝播したものだからだ[4]。「文語的表現」が「文語文法」という意味なら、現代語には「徒然なり」ではなく「徒然だ」という語形で残っているのだから、こちらも文語的とは言えない。

116 :名無氏物語:04/02/08 22:58
コギャル言葉を平安朝に翻訳するとどうなりますか?

てゆーかー、とか、かーわーいーとか。

 橋本治「桃尻語訳 枕草子」の逆パターンだから、普通の平安文学にしかならない。

117 :名無氏物語:04/02/08 23:43
>>116
平安朝の物語に出て来る女性がコギャル的な精神をもっていたかどうかは……


118 :名無氏物語:04/02/09 02:27
>>117
でも一般人なんて、
コギャル程度の事しか
話していなそだな。


121 :名無氏物語:04/02/09 10:39
>>117
『虫歯って、鉄漿してるみたいでかわイーイ』というのはあるから、
まあそういう感性は日本人なら皆持っているんじゃ?
程度の差があるだけで。

 私の高校時代のクラスメイトに、「桃尻語訳 枕草子」が大好きな人がいた。その人は、「桃尻語訳」を愛しすぎるあまり、宿題や定期テストの現代語訳の問題さえ、桃尻語訳で回答して提出していた。そのくせ間違ってはいなかったから、いつも好成績を取っていた。
 世の中には、面白い人がいるものだと実感した。

62 :名無氏物語:03/07/08 00:14
それなら現代の口調で言葉が使われるようになったのは
江戸~明治にかけてなんですか?


63 :名無氏物語:03/07/08 00:18
NHKラジオが「標準語(関東方言)」で放送するようになってから、じゃないかな。


64 :名無氏物語:03/07/08 00:47
>>63
標準語といわゆる関東方言は違うだろ…。

 在来の関東方言には、敬語法が発達していない、助詞「さ」や助動詞「べい」を使うなどの特徴がある。一方、いわゆる標準語にはこれらの特徴がない。このように、標準語と在来の関東方言との間には数多くの違いが存在する[5]。標準語の成立には上方方言の影響が大きいからである。そのため、野村剛史氏は、現代の標準語は上方語の系譜であると述べている[1]

181 :名無氏物語:2007/02/13(火) 07:51:08 ID:ej7JRzjD
言語に詳しい人にお聞きしたいのですが現代人が過去にもし行けたら
どの時代までなら日常会話で意思疎通できますか?
自分は明治時代ぐらいまでは可能だと思いますが・・・

 野村剛史氏いわく、

今日の日本語は一五〇〇年頃の日本語とさほど変わらないと言ってもよいくらいなのである。室町後期の日本語を話す人が今日の社会に現れたとしたら、今日の一般人は、その室町人について特殊な「方言話者」くらいに考えるのではないかと思われる。

「日本語スタンダードの歴史」 野村剛史 岩波書店 p. 14

 ただし、現代語と室町時代語の間には相当な音韻差があるから、互いの言葉に慣れるには時間がかかることが想像できる[6] [7]

182 :名無氏物語:2007/02/14(水) 09:15:46 ID:u2+xDo/A
まず、方言は地方によって事情が違うからパス。
標準語は、江戸の山の手言葉をベースにいろいろな要素を放り込んで
明治時代に作り上げて義務教育で全国に普及させた人工言語だから、
せいぜい明治後半以降しか通じないはず。
それもかなり意識的に言葉を選ばないとだめ。


183 :名無氏物語:2007/03/07(水) 23:32:36 ID:ncMKGvee
そもそも標準語って一体誰がつくったの?山の手言葉をもとに作ったって良く言われてるけど、いわゆる江戸弁とか千葉やら栃木あたりの方言とは全然違いますよね?標準語って。
それに江戸に参勤交代でやって来た地方出身の侍って何語で喋っていたの?家康は静岡出身だったから三河弁?標準語って明治になっていきなり誰かが作ったの?

擦れ違いの予感だが、だれかエロい人教えて!


187 :名無氏物語:2007/03/09(金) 00:07:20 ID:1EWQiozY
>183
山の手って具体的にどこ指してるのかは知らんが
おおざっぱな分け方すると
今でも山手線の東と西の地元民じゃ話し方も雰囲気も違うことは違う。
東は江戸弁って印象だが西で古くからある家の年寄りなんかは普通の家でも
敬語も含めて日常会話はかなり標準語に近いとは思う。
それが明治やそれ以前からなのかは知らんが。

現代では東京や神奈川の一部地域・層で使われる言葉が標準語に一番近いと思うけど
それでも教科書的・文法書的な意味で完璧な日本語、完璧な敬語を
日常会話で自然と話せる人がいるかどうか・・・

 野村剛史氏によれば、標準語の歴史は室町時代にまでさかのぼることができるという。
 室町時代には首都の求心力が強まり、京都の言葉は威信のあるものとして受け取られるようになった。さらに、応仁の乱が起こると、公家や僧侶などの知識人は戦火を避けて地方都市に逃れた。これにより、各地の支配層の間に京都の教養層の言葉が広まることとなった。
 16世紀末、豊臣秀吉の天下統一によって全国の大名とその家臣団が上方に集められると、上方方言は大名間の共通語として用いられるようになった。江戸時代になると、上方から江戸への大規模な人口移動が起こった。これにより、上方の教養層の言葉が江戸に持ちこまれ、江戸の教養層の共通語となった。さらに、江戸時代後期には全国各地に私塾ができ、教養層が全国的に流動するようになった。これにより、上方方言にルーツを持つ江戸の教養層の共通語は、全国の教養層の共通語として通用するようになった。その教養層の共通語は、明治以降の標準語へとつながっていく[1] [8]


 このスレッドの検証に役立ったのは、「話し言葉の日本史」(野村剛史 吉川弘文館 2011年)と「日本語スタンダードの歴史」(野村剛史 岩波書店 2013年)の2冊である。スレッドが生きていた当時、これらの本はまだ発行されていなかった。だから、スレッドにはこれらの本の内容は反映されていない。
 だが、この当時も、昔の人がどのように話していたのかについてわかりやすく書かれた資料はたくさんあった。しかしながら、ほとんどの人は、その豊富な資料を読むことなく、うろ覚えと憶測で議論している。これが便所の落書きなのだ。「昔の2chは有益な情報の宝庫だった」と言う人がいるが、それはとんだ大間違いなのだ[9]


[1] 「話し言葉の日本史」 野村剛史 吉川弘文館
[2] 「日本国語大辞典 第二版 第一巻」 小学館
[3] 方言と郷土愛
[4] 「第2章 日本語方言の形成過程」 小林隆 (「はじめて学ぶ方言学」 井上史雄、木部暢子:編著 ミネルヴァ書房)
[5] 「東京語」 田中章夫 明治書院
[6] 現代の日本人は昔の日本人と会話可能なの?
[7] 現代の日本人は昔の日本人と会話可能なの? 2
[8] 「日本語スタンダードの歴史」 野村剛史 岩波書店
[9] ググって駄目なら本を読め