(記事初出:2016年1月14日)
(大幅改定:2019年9月22日)

 現在の日本では、マスメディアで黒人を軽々しく扱うことはタブーとなっている。

 例えば、「トンデモ本? 違う、SFだ! RETURNS」(山本弘 洋泉社)では、ゲームに黒人キャラを登場させようとしたら「肌を黒く描くと差別になる」という横槍が入った例が紹介されている。また、2003年の教科書検定では、文部科学省の指摘を受けて、挿絵に描かれた黒人の容姿が美しく修正されるというできごとがあったし、2015年には、ツイッターで公開されたももいろクローバーZの黒塗り写真が「黒人差別」だと批判を受ける事件(以下ももクロ事件)があった。

 ある人種の身体的特徴を軽々しくネタにするのは人種差別であり、許されるわけがないと思う人もいるだろう。
 だが、その感想は正しくない。なぜなら、現在の日本では、人種差別は許されているからだ。その証拠に、マスメディアで白人を軽々しく扱うことはタブーとなっていない。
 ネタにされる側からの批判がないわけではない。例えば、2014年1月から放映が始まった全日空のCMは、出演者が金髪のかつらと高さを強調したつけ鼻をつけてステレオタイプ通りの白人を演じていたことから、日本在住の外国人から人種差別だという批判を受け、放送中止に至っている[1] [2]
 だが、この事件(以下全日空CM事件)が日本社会に及ぼした影響は小さい。実際、これによって白人の戯画化やステレオタイプ的描写がタブー視されるようになったかと言えば、別にそんなことはなかった。
 例えば、日本の俳優が古代ローマ人を演じる映画版「テルマエ・ロマエ」や、「金髪」という白人の身体的特徴を思い切り前面に押し出した「きんいろモザイク」が、白人差別作品だと批判されるようにはならなかった。また、髪を金色に染めたり、金髪のかつらをかぶったりすることもタブーになってはいない。

 同じマイノリティーであっても、黒人の戯画化はタブーだが、白人の戯画化はタブーではない。これは明らかなダブルスタンダードだ。そして、このようなダブルスタンダードは、「黒人と白人」の場合に限った話ではない。


 例えば、中国人を馬鹿にしたり、軽々しく戯画化したりすることは、良識的な人々からの非難を招くおこないである。
 中国人戯画化批判の例としては、次のようなものが挙げられる。

たとえば、<アルヨことば>は、戦前の、中国の人々に対する偏見に満ちたまなざしとともに用いられていたことを知っておく必要がある。現在の漫画で用いられる例を見ると、悪意も屈託もないようには見えるが、しかしそもそも不完全な日本語=ピジンしか話せないかのように描写されたとき、描写された当人はどんな気持ちがするかということを考えるべきである(略)。

「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」 金水敏 岩波書店 p.203

 要するに、中国人の戯画化は(中国側からの抗議の有無にかかわらず)描写された相手の気持ちを(勝手に)想像してやめるべきだと言っているのである。
 一方、西洋人(特に西洋の白人)のキャラクターが<片言>を話す三枚目として描かれることは日常茶飯事であるが[3]、このことを上と同じ理由で批判する識者は見当たらない。

 また、高島俊男氏は、エッセイ「『支那』はわるいことばだろうか」[4]にて、「『支那』は差別用語とされているので、『支那』という呼称を使いたい箇所でも『中国』と書かざるを得ない」と述べている。
 一方、侮蔑的なニュアンスも含む「ヤンキー」という語の使用は、別にタブーとされてはいない。さらに、「ヤンキー」という語は、現在では「不良少年」という意味で使われることが多いが、不良少年を「アメリカ人」と呼ぶことをアメリカ蔑視とかアメリカ人差別と非難した例は見たことがない。


 なぜ、このようなダブルスタンダードがまかり通るのか。

 それは、日本で「反人種差別」を唱える良識的な人々の多くが、重度の西洋かぶれだからである。ももクロ事件について取り上げたJ-CASTニュースの記事は、西洋かぶれの好例である。

 黒人ユーザーらは「アフリカ人に対する差別の歴史を学んでほしい」「彼らは黒塗りが私たちにどのように映るか気づいているのか」と怒りをあらわにした。

ももクロ「黒塗りメーク」にNYタイムズ記者批判  「罪のないパフォーマンス」ではすまされない?

 では、アフリカ人に対する差別の歴史を学んでみよう。具体的にはジンバブエのケースについて学んでみよう。

 ジンバブエには深刻な人種差別が存在した。だが、差別する側と差別される側は、歴史の中で大きく変わっている。南ローデシア植民地時代は、白人支配の下で黒人が迫害されていたのに対し、ムガベ政権下のジンバブエでは、黒人支配の下で白人が迫害されていたのだ[5] [6]
 つまり、ジンバブエには黒人差別と白人差別の両方の歴史が存在するのだ。そのうち、前者だけを問題視しなければならない理由はない。

 一方、日本国内のツイッターユーザーの反応は異なり、「過剰反応ではないか」「彼らに人種差別の意図はなく、敬意や憧れを表している」といった意見が少なくなかった。

 だが、こうした視点は世界とはギャップがあるのかもしれない。現代アジア研究所特別研究員のオリバー・カープ氏は日本の披露宴の余興で見た「黒塗りメーク」について、2013年7月2日付のハフィントンポスト記事の中で次のように述べている。


 「私アメリカ人にとって、ブラックフェイス(黒塗り)はただ一種類、否定的な意味しか持っていません。それは、偏見、嘲り、そして人種差別です」「様々な芸術に対する選択肢の1つなのかもしれませんが、罪のないパフォーマンスとはみなされません」

「黒塗り」が物議を醸した例は、韓国でもあった。2012年1月に放送したバラエティー番組で、女性出演者が黒塗りメークで登場したところ「言葉を失った」「吐き気がする」などと世界中からバッシングされたのだ。

ももクロ「黒塗りメーク」にNYタイムズ記者批判  「罪のないパフォーマンス」ではすまされない?

 「世界」だと? アメリカ人の発言だけを引用して「世界」だと? 直後に韓国での黒塗りの事例を挙げておいて「世界」だと? 言うまでもなく、韓国は「日本」ではなく「世界」の側だ。

 そもそも、黒塗りが絶対的タブーなのは、アメリカとイギリスくらいだという[7]。「黒塗りはタブー」というのは、「世界」どころか、ごく少数の国のローカルルールでしかないのだ。

 日本向けの表現は日本の基準、韓国向けの表現は韓国の基準に則ればよいのであって、北朝鮮やブータンやサウジアラビアやジンバブエのローカルルールに則る必要はない。同様に、アメリカのローカルルールに従う必要もない。

 結局、日本における黒人の戯画化を非難する人にとって、「世界」というのはジンバブエでも韓国でもなく、アメリカのことなのだ。アメリカ人がアメリカ的な価値観から日本を批判するのはともかく、日本人がその尻馬に乗るのは、西洋かぶれ以外の何ものでもない。

 さて、上で「ダブルスタンダード」と書いたが、西洋かぶれである当人は、決して自分の行為をダブルスタンダードとは思っていないだろう。
 西洋の白人はいつでもどこでもマジョリティーだと信じているので、からかっても人種差別や外国人蔑視につながるとは考えないのだ。有色人種や非西洋人はみじめな弱者であり、いたわってやらなければならないと思っているのだ。日本のような、白人や西洋人がマイノリティーである社会など、想像すらできないのだ。
 ことさらにアメリカの風潮を気にするのも、「世界」といえばまずアメリカなのも、西洋かぶれの表れでしかない。

 これは由々しき事態である。

 なぜなら、戯画化してもよい人種や民族とそうではない人種や民族があるという発想は、差別そのものだからである。有色人種や非西洋人を「みじめな弱者」と見下すことは、蔑視そのものだからである。そして、この差別や蔑視は、「反差別」の名の下に押し進められているからである。自家撞着もはなはだしい。

 先述の「『支那』はわるいことばだろうか」には、次のような記述がある。

 今日本で、アメリカ人の悪口を言ってもイギリス人を批判しても、アメリカ蔑視だイギリス人差別だと言う者はない。それが中国となると、それ中国蔑視だ中国人差別だと金切り声を立てる人があらわれる。
 なぜか。当人たちもはっきり意識してないのだろうが、彼らの心中には、日本は中国より上だ、日本人は中国人より上だ、中国は弱い国で中国人は弱い人たちだ、「いたわってやらなくては。自分たちが守ってやらなくては」という思いあがりがある。その思いあがりは、戦前支那人を軽侮した日本人と紙一重、いやほとんど同じ穴のムジナだ。なまじ良心づらしているだけ気色がわるい。

「本が好き、悪口言うのはもっと好き」 p.166-167

 まったく、なまじ良心づらしているだけ気色がわるい。


 さて、上で「『世界』というのはジンバブエでも韓国でもなく、アメリカのことなのだ。」と述べたが、ここで「アメリカかぶれ」ではなく「西洋かぶれ」と書いているのはなぜか。それは、人種差別を批判する言説には、「西洋」を十把一からげにして「強者」として扱っている節が見受けられるからである。

 西洋を十把一からげにしている節は、例えば、イタリア人を軽々しくネタにすることがまかり通っていることからもうかがえる。

 アメリカでは、同じ白人の中でも、イタリア系住民はアングロサクソン系住民に見下されてきた[8]。また、かつて、SF作家で評論家のデーモン・ナイトは、アメリカの物語作品の中で活躍するのがアメリカの白人ばかりであることについて、「インド人、アフリカの黒人、マライ人、中国人などの宇宙英雄はどこにいる?――まあいい、そこまでは言わずとも――せめてイタリア人のヒーローはいないのか?」と嘆いたが[9]、ここからも、人種差別が激しかったころのアメリカでは、イタリア人は黒人や東洋人と同様に表舞台から排除されていたことがうかがえる。

 このように、アメリカにはイタリア人差別の歴史があった。だから、もし「反差別」を唱える人がアメリカにかぶれているのならば、日本のマスメディアにはびこるイタリア人の戯画化を問題視し、差別だと大声で抗議するはずである。

 だが、実際はそうではない。イタリア人を「とにかく明るいマザコン野郎」扱い(下図)した所で、イタリア蔑視だのイタリア人差別の歴史を共有すべきだのと糾弾され、表現を引っこめざるをえなくなることはない。もちろん、全日空CM事件の後でもである。これはすなわち、イタリア人は、西洋人であるというただそれだけの理由で、からかっても構わない「社会的強者」枠に放りこまれているということである。

イタリア人
図 「るるぶイタリア '15」(JTBパブリッシング 2014年) p. 9

 顔を黒く塗ったり、中国人キャラに「~アルヨ」と言わせたり、「支那」という言葉を使ったりすることがNGならば、髪を金色に染めたり、西洋人キャラに「~デース」と言わせたり、「ヤンキー」という言葉使ったりすることもNGのはずだ。逆もまたしかり。髪を金色に染めたり、西洋人キャラに「~デース」と言わせたり、「ヤンキー」という言葉を使ったりすることがOKならば、顔を黒く塗ったり、中国人キャラに「~アルヨ」と言わせたり、「支那」という言葉を使ったりすることもOKのはずだ。

 どの国の人間も平等に尊重し、平等に批判し、そして平等に茶化す。これが公正というものだ。どちらもOKか、どちらもNGか。2つに1つだ。

 繰り返すが、戯画化してもよい人種や民族とそうではない人種や民族があるという発想は、差別そのものである。特定の人種や民族の戯画化だけを非難する西洋かぶれ連は、自分たちのダブルスタンダードに気づかなければならない。そして、特定の属性だけに肩入れする「差別主義者」を名乗らなければならない。


[1] 「金髪に高い鼻」は人種差別、ANA新CMに外国人から苦情
[2] ANA、新CMを修正へ 人種差別的との苦情受け
[3] 役割語としての片言日本語と野放しの偏見
[4] 「本が好き、悪口言うのはもっと好き」 高島俊男 文春文庫
[5] Racism in Zimbabwe
[6] 南アフリカで繰り返される「土地改革」による人種対立
[7] 風のハルキゲニアさん「各国のブラックフェイス問題に対する温度差」
[8] 「なぜ悪人を殺してはいけないのか」 小谷野敦 新曜社
[9] 「トンデモ本? 違う、SFだ! RETURNS」 山本弘 洋泉社 p.90