(記事初出:2015年11月29日)

 役割語と翻訳、「外国人」のステレオタイプに関する読み物をいくつか紹介

 「外国人の役割語」には、主なものが2種類ある。1つは、外国語での発言を翻訳する際の言葉づかい、もう1つは、外国人キャラが日本語で話す際の言葉づかいだ。田川氏が挙げているものを例にすると、「女性の言葉を変に翻訳するのをそろそろやめてほしい。」で話題になっているのは前者、「コレモ日本語アルカ?」(金水敏 岩波書店)で主に扱われているのは後者だ。
 同じ「外国人の役割語」であっても、この2つは別物だ。前者は母語での発話を翻訳したものであり、後者は第二言語での発話で、なおかつ翻訳されていないものである。ごっちゃにしてはいけない。
 翻訳では、必要以上にくだけた言葉が用いられ、また、性差がやたらと強調されることが多く、時に読者・視聴者に違和感を与える。しかしながら、そこでの言葉づかいは、国内作品に登場する日本人キャラクターの台詞にも見られる[1]。つまり、性差の強調されたタメ口は、決して翻訳独自のものではないのだ。
 なお、翻訳の言葉づかいについては以前も述べたので[1] [2]、詳しい説明は省略する。


 役割語としての<片言>の使い手としてまず思い浮かぶのは外国人キャラクターだが、実際の例を見てみると、<片言>と「外国人キャラクター」は、必ずしも強く結びついているわけではないことがわかる。なお、用例の出典はに示した通りである。

 まず、当たり前のことだが、外国人キャラクターといってもいつも<片言>を使っているわけではない。母語で話している場面で<片言>が出てくることはそうそうない。<片言>が現れるのは、基本的に第二言語を使う場面である。中国人キャラの場合は、母語で話しているはずの場面でも<アルヨ言葉>を使うというケースが少なからずあるというが[3] [4]、中国人以外の外国人キャラクターでは、そのような例はあまりない。例えば、以下の(1)~(7)はいずれもフィクションの外国人(異世界人含む)キャラクターの台詞だが、日本語での発話(1)~(2)、(4)、(6)では<片言>を使っているのに対し、母語での発話(3)、(5)、(7)は<片言>ではない。

日英ハーフの高校生、九条カレンの台詞

(1) 皆サン オハヨウゴジャイマス (A: p.87)

(2) えー どっちが着てもいいと思うデス (A: p.91)

(3) タコ焼きの中にはタコが入ってるけど たいやきの中には鯛は入ってないんだよ (A: p.90)


マフィアのボス、ドン・コルレオーネの台詞

(4) ショーライふたりの子どもドーシケッコンさせよゆう役得を… (B: p.227)

(5) すっかり日本が気にいったようだなマイケル (B: p.238)


異世界の少女、レレイ・ラ・レレーナの台詞

(6) 畑、焼く、煙でない。季節、違う。人のした、何か。鍵? でも、大きすぎ (C: p.217)

(7) 余裕があると言っても、いつまでもゆっくりしていられるわけではない。早く出発した方が良い (C: p.82)

 また、<片言>を使うのは外国人キャラクターだけではない。日本人キャラクターが第二言語を使う場面で<片言>が現れるというケースもある。(8)はそのよい例だ。

異世界に派遣された自衛官、伊丹耀司の台詞

(8) ドラゴン、火、だす。人、たくさん、焼けた (C: p.77)

 興味深い<片言>の用法としては、日本語話者が英語っぽく話そうとしてわざと<片言>の日本語を使うというものがある。例えば、(9)では、英語が話せるかという<片言>での問いに、「ばっちりアルヨー」という<片言>で返事をしている。

(9)ルカ:あなたは English しゃべれますか?
レン:い、イエース、イエス! ばっちりアルヨー

「巡音ルカ と 英語でおしゃべり!」



 依田恵美「役割語としての片言日本語」[5]では、外国人キャラクター(特に西洋人キャラクター)の<片言>の特徴として、以下のようなものが挙げられている。

  • 文法的に崩れた日本語―終助詞「ね」の誤用―
  • 文法的に崩れた日本語―モーラの挿入、および消失―
  • 母語の出現
  • カタカナ表記―視覚的効果―
「役割語研究の展開」 p.214-218

 これらの要素は、依田氏が挙げている例だけでなく、以下の(10)~(15)などのように、手元の資料の中にも容易に見つけ出すことができる。

 1つ目の「終助詞『ね』の誤用」とは、本来何かの事実を話し手と聞き手が共有していることを前提に用いられるものである終助詞「ね」を、聞き手の知らない事実を提示する際に用いるというものである。依田氏はこれを「西洋人キャラクタの話す片言要素として選択されている」(「役割語研究の展開」 p.215)と述べているが、金水敏氏によると、このような「ね」の用法は、中国人キャラクターの役割語としても使われているという[4]。実際、(10)でも、中国系のキャラクターが新しい事実を提示する際に終助詞「ね」を使っている。

密入国者の少女、ユイリンの台詞

(10) 来年からねー、ユイリンも学校行くことになったね。 (D: p.251)

 2つ目の「モーラの挿入、および消失」というのは、日本語にないはずの拍を挿入したり、逆にあるべき拍を消去したりすることであり、その中でも、特に、長音を挿入する方法が多く見られるという。
 (11)~(12)にも、例えば「大丈夫です」が「大丈夫でーす」となるような長音の挿入が見られる。

モルドバからの留学生、アリーナ・チェリビダッケの台詞

(11) 大丈夫でーす。いくみさんはジャパニーズ・マフィアになる必要はないでーす (E: p.35)


アストロ乙女塾学長、アントニオ・ホジェリオ・佐藤の台詞

(12) イエーイ! 実はミーは地下帝国までバカンスに来ていたのデース! (F: p.238)


 3つ目の「母語の出現」とは、日本語での発言中に、母語を混在させることである。ここで混在される母語は、主に感動詞や挨拶表現、その他日本でよく知られた簡単な言葉である。この要素は、(13)~(15)の例にも見られる。

日英ハーフの高校生、神山カティーナの台詞

(13) あたしがスモールは 日本の血のせいのだ (G: p.16)

(14) 日本人は革新的だわさ (G: p.29)

(15) Dibberはあるのか? (G: p.92)

 (13)では、「小さい」などという簡単な語をわざわざ英語で言っている。その一方で、(14)では「革新的」という難しい語を日本語で言っている。普通に考えれば、簡単なことを言う時より、難しいことを言う時の方が母語が出現しそうなものである。現実ではありそうにないこのような言葉づかいは、「外国人」というキャラクターを示す役割語と言える。
 一方、(15)ではdibber(穴掘り器)という読者になじみのない語が出現している。これはカティーナが日本語の園芸用語を覚えていないことを示す描写であり、(13)~(14)に比べてリアルな言葉づかいと言える。

 また、現実世界でのコードスイッチングや言語干渉とは違い、話し手の母語が英語でないにもかかわらず、英語交じりの片言が使われることも挙げられる。
 例えば、上の(11)はモルドバ人の台詞だし、また、(12)は作中で「妙なブラジル訛りの日本語」(「アストロ! 乙女塾!」 本田透 集英社スーパーダッシュ文庫 p.139)と説明されている。どちらも、設定上英語を母語としないはずのキャラクターの発言であるにもかかわらず、簡単な英単語が混在している。
 なお、このことについては依田氏も言及しているが、当該論文では具体例は挙げられていない。

 4つ目の「カタカナ表記―視覚的効果―」というのは、台詞全体や文末を片仮名で表記することにより、母語話者の台詞との差異化を実現するものである。これまで挙げた例でも、(1)、(2)、(4)、(9)、(12)で、台詞の非規範的な片仮名表記が見られる。

 なお、外国人キャラクターの<片言>の特徴と呼べる要素は、依田氏が挙げた4点だけではない。
 その他の<片言>の特徴としては、例えば、語形の誤りが挙げられる。(1)、(4)、(6)では、それぞれ「ございます」を「ゴジャイマス」、「約束」を「役得」、「火事」を「鍵」と言い間違えることで、<片言>らしさを演出している。
 また、(2)では「思います」と言うべき所を「思うデス」と、(13)では「あたしがスモールなのは 日本の血のせいだ」とでも言うべき所を「あたしがスモールは 日本の血のせいのだ」と言っているが、このような破格の表現も、<片言>を特徴づける要素と呼べよう。


 「役割語としての片言日本語」では、さらに、西洋人キャラクターの<片言>が敬体、東洋人キャラクターの<片言>が常体になることが多いことに着目し、歴史的・社会的な観点から以下のような説明を試みている。
 終戦直後の日本では、戦勝国の人間である西洋人は、日本人より優れた存在として憧憬の目で見られており、失礼のないように配慮してつき合うべき相手であった。そのため、西洋人とのコミュニケーションには敬体が選択されてきた。時代が下り、1980年代になると、アメリカは日本のビジネスパートナーとして重要な存在になった。パートナーとしてよりよい関係を築いていくために必要な配慮として、日本人とアメリカ人のコミュニケーションは敬体でおこなわれるようになり、そのため、「西洋人は敬体で話す」というイメージが作られるようになった。
 一方、東洋人(特に東南アジア出身者)は不法就労者として滞在する人が多かった。そのため、日本人は東洋人を「貧しい労働者」として見下し、配慮のない常体で話してきた。そのような日本人の言葉を手本にして、東南アジア出身者が常体の日本語を身につけるようになり、それが「東洋人は常体で話す」というイメージにつながった。
 要するに、日本人は西洋人を上位に見ているため、西洋人キャラクターの<片言>には敬体が当てられ、東洋人を下位に見ているため、東洋人キャラクターの<片言>には常体があてられるようになったということだ[6]

 では、フィクションに登場する「敬体の<片言>を使う西洋人」は、配慮すべき優れた存在として描かれているのだろうか。逆に、「常体の<片言>を使う東洋人」は、貧しくみじめな存在として描かれているのだろうか。

 貧しくみじめな東洋人キャラクターが常体の<片言>を使う例としては、(10)を挙げるのがちょうどよいだろう。日本に不法入国して娼婦として働く中国系の少女というユイリンの設定は、まさに「貧しい東洋人」のよいサンプルと言える。

 だが、<片言>を使う西洋(南米含む)出身者が優れた存在として描かれているかというと、それはいささか疑わしい。<片言>を使う西洋人は、優れた人物というよりも、むしろコミカルな人物として描かれることが多いからだ。
 例えば、「きんいろモザイク」にはアリス・カータレット九条カレン「ハーフでいっとこ」には神山コーラと神山カティーナという複数の西洋人キャラクター[7]が登場するが、そのうちカレンとカティーナが<片言>(カレンは敬体、カティーナは常体)で話すのに対し、アリスとコーラは流暢な<標準語>[8]を使う。そして、<標準語>を話すアリスとコーラは、<片言>を使うカレンやカティーナと比べて、明らかに賢い存在として描かれているのだ。
 また、「人生」「アストロ! 乙女塾!」はギャグ小説、「ストップ!! ひばりくん!」はギャグ漫画であり、アリーナもアントニオ・ホジェリオ・佐藤もドン・コルレオーネも相当コミカルに描かれている。
 実際、依田氏の論文でも、西洋人の<片言>の持つイメージは「陽気」「親しみやすい」というもので、緊迫した場面には似つかわしくないものであることが述べられている[6]

 金水敏氏は、英語圏で方言や外国訛りが役割語として用いられていることを示し、以下のように述べている。

 これらの英語の表現には、キャラクターを印象づけようとする作者の意図とともに、“ちゃんとしゃべれない”人々に対する偏見も見て取れる。偏見はステレオタイプのすぐ近くにあるのであり、これは日本語でも同様である。

金水 敏(2012):「特別講演 映画・アニメに出てくる“なまった英語”―役割語の観点から―」

 <非標準語>が「ちゃんとしゃべれない」人々への偏見の表れということは、逆に言えば、ちゃんとしゃべれてしかるべき優秀な人物、恰好よい人物は、<標準語>を話さなければならないということだ。それは、日本の作品に登場する西洋人であっても変わらない。恰好よい西洋人キャラクターは、西洋人のようにではなく、日本人のように話さなければならないのである。
 異世界人も同様だ。例えば、「ゲート」レレイが(6)のような<片言>を使うのはシリーズ序盤だけで、すぐに流暢な日本語を話すようになる。レレイは賢いキャラクターなので、<片言>はふさわしくないのだ。
 一方、第二言語を使う場面など、「ちゃんとしゃべれない」ことが自然である場合は、日本人キャラクターであっても<片言>を話す。


 さて、「コレモ日本語アルカ?」のあとがきには、以下のように書かれている。

 フィクションに登場する<アルヨことば>の使い手は、尊敬すべき崇高な人格者ではない。しかし一方で、特に私の子供時代に出会った戦後の作品では、明るく朗らかで前向きな、魅力的な人格も同時に表現されていたはずである。

(「コレモ日本語アルカ?」 p.215)

 <アルヨことば>の使い手だけでなく、<片言>を話す西洋人キャラクターも同様だ。<片言>の使い手は、恰好よかったり賢かったりはしないが、しばしば陽気で親しみやすい三枚目として描かれている。そして、これは古い作品に限ったことではない。

 しかし今、その発生と継承の歴史を調べていくなかで、<アルヨことば>の使用と中国人に対する日本人の侮蔑意識という政治的文脈とが分かちがたく結びついていることを知らされた。

(同上 p.215-216)

 こちらは幾分複雑だが、西洋人キャラクターの<片言>、そしてその使い手のキャラづけもまた、日米関係という政治的文脈と結びついたものである。

 西洋人キャラクターと「陽気で親しみやすい」というイメージの結びつきは、終戦直後に起こった、西洋人(特にアメリカ人)を優しく陽気な異国人として受け入れさせようという大々的な動きと関係があるという[6]
 <片言>を使う西洋人は愛嬌があるというイメージは昭和初期からあったし[6]、戦時中でもアメリカ文化に対する憧れは存在したというから[9]、戦後、米兵のイメージをよくしようという目論見がうまくいったのは充分納得できる話である。しかしながら、この間まで「鬼畜米英」と呼んで敵対していた相手を肯定的に受け入れるようになったのだ。強いものになびく姿勢があったことは間違いない。
 強いものになびくということは、相手が強いうちは尊重するが、弱くなったら必ずしもそうではないということでもある。
 実際、終戦直後、米兵が権力者であった時代に描かれた漫画で笑いの対象となっていたのは日本人であったが、1960年代になると、今度は西洋人が笑いの対象として描かれるようになったという[6]。日本が独立を回復し、アメリカ人が権力の座から転がり落ちたことが、フィクションでの西洋人キャラクターの扱われ方の変化に如実に表れている。

 また、時代は下って1970年代前半。当時のテレビCMでは、西洋人は恰好よさや高級感を表現するための存在であったという。だが、今では、西洋人タレントは高級感ではなく笑いや親しみやすさを表現するために用いられるようになった[10]。この変化は、日本の技術や文化が世界で評価されるようになり、もはや西洋は憧れの対象ではなくなったことの反映と言えよう。

 結局、日本人は西洋人・西洋文化それ自体に敬意など持っていなかったのだ。単に長いものに巻かれていただけなのだ。だからこそ、西洋の「権力」や「高級感」が弱まって媚びる理由がなくなると、西洋人は容赦なく三枚目の役割を担わされることになったのである。

 本書に記してきたことを踏まえるなら、もはや政治的な文脈への配慮なしに軽々に<アルヨことば>を用いたり論じたりすることは慎まれるべきである。

(同上 p.216)

 前述の通り、<片言>を使う西洋人キャラクターの背後にも政治的な文脈が存在する。そして、西洋人を三枚目の枠に押しこめようとする態度がある。ならば、次のような疑問を呈さなければなるまい。

 果たして、西洋人キャラクターの<片言>は野放しにしておいてよいものなのだろうか? 人種差別として糾弾しなくてよいのだろうか?


用例出典
A: 「きんいろモザイク 1」 原悠衣 芳文社
B: 「ストップ!! ひばりくん! 2」 江口寿史 双葉文庫
C: 「ゲート 1. 接触編<上>」 柳内たくみ アルファライト文庫
D: 「私立T女学院」 星野ぴあす マドンナメイト文庫
E: 「人生 第10章」 川岸殴魚 ガガガ文庫
F: 「アストロ! 乙女塾! 僕は生徒会長に恋をする」 本田透 集英社スーパーダッシュ文庫
G: 「ハーフでいっとこ 1」 後藤羽矢子 竹書房

[1] <気さくな男ことば>
[2] なぜ洋画とかの吹き替えはしゃべり方が不自然ですか
[3] 「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」 金水敏 岩波書店
[4] 「コレモ日本語アルカ?」 金水敏 岩波書店
[5] 「役割語研究の展開」 金水敏:編 くろしお出版
[6] 「役割語としての片言日本語」 依田恵美(「役割語研究の展開」 金水敏:編 くろしお出版)
[7] アリスはイギリス人。カレン、コーラ、カティーナは日英ハーフ。
[8] 折り目正しい書き言葉や公的な話し言葉だけではなく、「俺は知らねえよ」のような、通常は標準語の範囲から逸脱したものと見なされる乱暴な話体までの広い範囲を指す[3]
[9] 「日本軍と日本兵」 一ノ瀬俊也 講談社現代新書
[10] 「CM界 ロッテ のど飴 「ツアーガイド」編」(「読売新聞」 2015年11月24日)